クロアチアについて
ドゥブロヴニクからモンテネグロへの1日ツアーに行く時に、ガイドのSandraに聞いたクロアチアについての話。
※ずっと英語で話しててメモが英語交じり。適切な日本語に訳すのめんどいので、ルー大柴的な文章のままで失礼。
クロアチア全般
クロアチアの正式名称は「Hrvatska」。英語でJapanと呼ばれる日本が、日本人には「日本」「ニッポン」と呼ばれるのと同じような感じ。スラブ系の言葉では読みにくいので「クロアチア」としている。
クロアチアの通貨「kuna」は動物の「テン」という意味である。昔、テンの毛皮は通貨代わりに使われるほど貴重だったことに由来しており、kunaのコインにはテンの絵が描かれている。
クロアチアには1,000以上の島々があり、そのうち人が住んでいるのは60島ほど。
私たちが滞在したホテルの部屋から見えているロクルム島はナポレオンが作ったFortressがある。No habitantだけどボタニカルパークや湖がありexcursionにはステキなところである。
クロアチアは大きく、イストラ半島、スラヴォニア地方、ダルマチア地方の3つに分かれる。
ドゥブロヴニクは天気がよければ10月でも海で泳げる。
クロアチアの人口は約4.2million(420万人)。そのうち1millionがザグレブに住んでいる。つまり人口の1/4がザグレブにいることになる。ザグレブとドゥブロヴニクは600kmほど離れている。
ザグレブ~スプリット間は鉄道やハイウェイがとっているがドゥブロヴニクにはそれがないので孤立している。ハイウェイは4年前にできるはずだったが、経済難のために未だに完成のめどは立っていない。そのためバスか飛行機が主要な交通となっている。
クロアチアはセレブのお忍びのデスティネーションになっている。船の上で過ごすようなバケーションスタイルが確立されていてプライバシーが守られるから。ブラッド・ピットやアンジェリーナ・ジョリー、ビヨンセ、モナコ王女といったセレブリティ達が訪れる。最近では1週間ほど前にトム・クルーズも来ていたとのこと。
地理的なこと
山道など通りながら、モンテネグロの国境に向かって舗装されていない道を進んでいく。
この地域では細長い三角に見える木々が生えているのが目に付く。これはCypress tree(イトスギ)。Evergreenな木で、Everlastingの意味を持つことから縁起のいいイメージがあり、結婚を決めたyoung coupleが植えたりする。
(DBVの空港で気になった、岩肌ゴツゴツしたハゲ山についても聞いてみた)
このエリアの山には木が生えておらずbare mountainである。ローマ帝国、ヴェネツィア共和国時代、造船や建築のためなどに大量に木が必要で、このエリアの木が使われた。大量に何度も伐採されるうち、土を蓄えておく力がなくなり、雨などで土が流失。木が育たずに岩肌が見えるようになった。またこのエリアは夏には40度を超える。2~3日前に雨が降ったばかりだが、それは4か月ぶりぐらいのまとまった雨だった。そんな気候のため、乾燥していて山火事もよく起きる。それらも要因。
言語について
ドゥブロヴニクにはヴェネツィア共和国の影響を受けているためクロアチア語のほかにイタリア語も多く話される。ザグレブや内陸はハンガリーやオーストリア帝国の影響によりドイツ語も話される。学校ではドイツ語とイタリア語を習うとのこと。Sandra自身は母語であるクロアチア語のほか、ドイツ語、イタリア語、英語が話せる。英語が話せるのは子供の頃からアメリカのテレビを見たり、若い時にロンドンでAu Pair(ベビーシッティングなどしながらホームステイ)をしていた時に身につけたとのこと。特にテレビに関しては、クロアチア国産コンテンツがあまりなく、英語のままで海外作品が放映されていたことから、英語に触れる機会が多く、覚えるのは難しくなかったと言っていた。こないだ、Euro IA Summitに行ってきた長谷川さんが、そこの参加者から聞いた話にも通じるな。
⇒ サストコ「世界行脚」:Euro IA Summit 2012 in Rome
上記理由により、英語を話せること自体はツアーガイドとしてはあまり優位性にならない。最近はロシア資本やブラジルのツーリストも多いため、ロシア語やポルトガル語ができるのがアドバンテージになるとされている。
産業について
このエリア(ドゥブロヴニク~モンテネグロ付近)の人々はツーリズムで生計を立てている。(ダルマチア地方の80%)なお、イースターの時期から11月頃までが観光シーズン。また、ツーリズムで生計を立てていない残りの20%の人はワインやオリーブの生産、ムール貝やオイスターの養殖などに従事している。
戦争のこと
なぜ独立戦争が起こったか。旧ユーゴスラビアにおいてクロアチアやスロヴェニアはrich republicだった。rich republicはpoor republicにお金をあげなければいけない(経済的援助のこと?)。そうするとrich republicは自分たち自身の発展が遅れてしまう。そのため独立を望んでいた。モンテネグロはsmallest and less prosper republic。
ドゥブロヴニクの空港は1964年に開港。ただし1991年~1994年は戦争のため閉鎖されていた。戦争の間、女性や年配の人達、子供たちはクロアチアの中でも安全なエリアに船で送られ、何年ものあいだホテルで避難生活を余儀なくされていた。独立戦争の際、旧市街の70%が破壊された。
旧ユーゴスラビアは1991年に独立戦争が始まった。6つの共和国、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア、モンテネグロ、セルビア、マケドニアが独立。
1995年に終戦したものの、国境は1999年まで閉じていた。
クロアチアとモンテネグロの国境には、クロアチア側とモンテネグロ側にそれぞれパスポートコントロールがある。2つのパスポートコントロール間は約2Kmも離れている。(お互いがお互いのことを好きではないからだと言われている)ちなみに、この2kmの間には開いてるんだか閉まってるんだかよくわからないような地味な免税店をいくつか見かけた。お酒とタバコを主に売っているようだった。
前述のような背景から、クロアチア人とモンテネグロ人はお互いあまり好きではない。戦争のためにいまだにわだかまりがある。
ドゥブロヴニクのツアーガイドはモンテネグロに行きたがらず、モンテネグロのツアーガイドも同様にドゥブロヴニクに行きたがらない。とはいえ、ツアーの需要はあるため、Sandraのようにモンテネグロの攻撃をウケず戦争の影響が少なかったエリア出身のガイドが、モンテネグロなど近隣諸国へのツアーガイドを買って出るようになった。Sandraの地元はクロアチアの北部、イタリアまで約40分のところにある。
戦争が終わったあとも戦争のイメージは消えず、しばらくの間ツーリストは戻らなかった。ゆえにSandraが育ったエリアは戦争の直接の被害はなかったものの、観光産業が打撃を受け、経済的には困窮した。
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