私のIA/UX観

先日の「富裕層向けユーザーエクスペリエンス」に引き続き、大それたタイトルで書いてみる。

しかし思考がまとまっているわけでもなく、超個人的な備忘録って感じだけど。

私がIAやUXに興味を持った経緯は、2002-2006年頃までのディレクター時代の経験によるところが大きいわけだけど、その当時から現在のようにIAやUXということについて学んだり考えたりする機会に恵まれる今に至るまで、私の中で揺らぎなく思っていることがある。

それは、

「素晴らしいと納得できるIAやUXは、究極的には、自分でサービスを立ち上げることでしか実現できないのではないか」

ということ。

反対意見の方が多いんだろうなと思うけど、何年考えてみてもやっぱりそこの意見が変わることはない(少なくとも今のところ)。というか、正しいとか間違っている、とかではなく、私はIAやUXをそこまで拡大解釈して捉えていると思う。

IAというか特にUXについてかも。

IA設計やUX設計の時、ユーザーとコンテンツをどうつないであげるか、どんな体験をさせてあげたいか、そういうことを検討するけれど、もっと根本的なところで「継続性」というキーワードがあるのではないかと思って。

「見れていたものが見れなくなってしまう」とか「使えていたものが使えなくなってしまう」とか、それって著しくネガティブな印象を与えてしまうと思うから。

使い勝手だとか、「この世界観素敵だわ〜」というような印象とか、そういう一時的なことではなく、継続的にサービスが提供され続ける、ということが一番プリミティブなUXなのではないかと思う。企業で言うところのゴーイングコンサーンみたいなものか?

電化製品とかのプロダクトの場合、「そもそも壊れない」品質で世に出されるはずだし、ラインオフしたらほとんどのものは、アフターサービスを除いてはメーカーの手を離れてしまうと思うけど、仮に少々使い勝手が悪かったとしても、物理的に存在している以上、朝起きてみたらあったはずの電子レンジがなくなっていたなんてことは基本的にありえない(盗まれたとか、テレポートできちゃった、とかじゃない限り)。少なくとも、プロダクトが「こちら側」にあるので、ある日突然そのプロダクトが消失してしまうとしても、それはユーザー側の責任で済ませられる。「レンジがなくなったのは製造元のA社が悪いのだ。A社なんて大っきらいだ!」とはならないはず。

でも、Webサービスとか何か「仕組み」を提供している場合は、使っているのはユーザーで、操作しているのは「こちら側」だけど、操作している対象は「あちら側」にある。バグのない品質担保された状態でリリースされても「こちら側」に所有できるわけではない。ある日突然(事前告知されるとしてもだ)そのサービスや「仕組み」が消失してしまうとしたら、それは「あちら側」の都合であって、ユーザーの責任ではないので「こんなサービス大っきらい!」となってしまうんじゃないだろうか。何か記録を残したりするアーカイブ性の高いものだと特に。

となると、そもそも、サービスや「仕組み」が消失してしまわないような事業モデルが作れることや、維持・拡大していくための営業力、将来を予測しながら攻めていくための財務戦略、チームビルディングのための組織マネジメントが大事かつ、そこに責任を持つところまで必要なんじゃないかと思うわけ。(すごい飛躍した結論に聞こえるかもしれないけど)

仮説を立てたりコンサルするだけじゃダメで、営業に行き、売上を自ら立て、チームの士気を上げ、ファイナンスもやる、そこまで全部。

「こんなユーザーが、こんな状況で、こんな機能を、こんな体験と共に、こんなフローで使える」といったシナリオや、それに基づいた実装は、ほんとに表面的な皮膚みたいなもんで、そもそも体全体を維持することの方が大事なんじゃないのかなーと。

ま、表面的な皮膚のところをどうするかさえ難しいんだから果てしない話だけど。

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One Comment

  1. […] 前に、「私のIA/UX観」という記事にもちょっと書いたりしたんだけど、Webエコシステムよりもさらに広い領域までカバーできていないと、提供できるユーザーエクスペリエンスが部分最 […]

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