感情ジェットコースター

感情の起伏の激しい一週間だった。

ちょうど1週間前、同級生の訃報を聞いた。教えてくれたのは卒業以来会っていない小6の時の同級生の女の子。あー、高校生かそのぐらいの時に街中でばったり会ったことはあるかもしれない。ともかく、15年近く音信不通だったのが、数カ月前にmixiで再びつながった。

頻繁に何かやり取りするほどでもない、そんな彼女からのメッセージで、なんだろうと思って開くと、小6で同じクラスだった男の子がひき逃げされて亡くなったという話だった。

ひき逃げとかって、ニュースの中だけの話じゃないの!?と勝手に思っていたので、まずそれが信じられなかった。そしてなにより、ひょうきんで体格もよくて、悪ガキな感じなのに案外繊細なところもあるような、(別の友達に言わせると)「心優しいジャイアン」みたいな人が、そんなに簡単にあっけなく死んでしまうんだろうか、ということが不思議でならなかった。

1ヶ月ぐらい前、中学の音楽の先生が亡くなった。私はその先生のクラスになったことがなかったので、自分達の学年の担任だったということをすっかり忘れていた。その先生の訃報は、私のエレクトーンの先生から聞いた。そのエレクトーンの先生は、亡くなった先生と学生時代の同級生だったから。亡くなるには若すぎる年齢だったので、その先生の訃報にもちろん驚いたけど、正直、涙が出るほど悲しいとは思わなかった。そんなに親しくしていた先生でもないし、卒業以来長いこと会ってないんだから、そんなもんだよね、と自分なりに思っていた。

今回、事故で亡くなった同級生だって、大人になってからは一度も会ったことがなかったし、正直、彼がいなくなったからといって、私の毎日の生活に支障があるわけでもない。なのに、先生が亡くなった時とは全く違って、気分はドヨヨーンと落ち込み、悲しくてたまらない。

お通夜やお葬式に行くことも考えたけど、その姿を見てしまったら、本当に亡くなったことを認めなくちゃいけないような気がして、行かないことにした。ヘンテコなことばかり言って笑っているイメージのままでいてほしくて。

行かない代わりに弔電は打った。文章を考えてるうちにまたいろいろ思い出して、涙が止まらなかった。

そんな悲しい出来事の一方で、このことがきっかけになって、mixiに同級生達が集まってきているのか、卒業以来全然会っていなかった女の子達との連絡が復活した。それはとても嬉しい。その中には「再会したい人トップ5」に入るような子もいて、俄然テンションが上がる。その子は中学時代、めちゃ可愛くて美人で面白くて、自慢の友達の1人だった。みんな、どんな人生を歩んできたのかとても興味がある。

週の後半には、上記のようなダイナミックな何かということではないけれども、人の器みたいなものをいろいろ考えたりしていた。

主張の内容、その言い方、状況に対しての反応の仕方、それぞれの立ち位置においての責任とか。

はらわたが煮えくり返るような怒りを覚え、思っていることを全部ぶちまけようかとも思ったけど、感情が昂っている時に何かを言っても、はたから見ると論理的に見えなそうだなと思い、やめた。

いろんな意味で、「コンテキスト」を考慮することの限界を思い知らされ、「ユーザーエクスペリエンス」が残念ながら、商業的なものに対してのキャッチーな何かでしかないのではないかとの疑念が沸き上がってくる。

人の上に立つことの意味、責任をわかっている人は本当に少ない。はきちがえている人が多すぎる。井の中の蛙であることの恐ろしさ。自称デザイナーの全員が必ずしも本当のデザイナーとは限らない、ということと同じ。

少なくとも私は、自分自身が人の上に立つ器でないということを知っている。そして「The 経営者」と呼べる人が身近にいて、上に立つ人間がどういう人であるべきかを、嫌というほど見せつけられる。「The 経営者」が身近にいるからこそ、「自称マネージャー、経営者」へのイライラが募るとも言えるのだけど。最低限のビジネスゲーム分かってる?

そんなこともありつつ、愚痴から妄想まで分かち合える友達がいるのも、心のバランスを保つのに欠かせない。酒が一滴も入ってないのに、なぜ一体こんなに盛り上がれる!?というぐらい楽しく過ごせたりもする。

喜怒哀楽の激しい、全くもって精神が安定しない、ダメダメ人間なまま、もうすぐまた1つ歳を取ってしまうのか…。

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